東京大学Center for Global Advance Studiesとワークショップ開催

2025.09.12

2025年7月8日(火)、一般社団法人Music Dialogue と東京大学Center for Global Advance Studiesの共催による共同ワークショップが、東京大学本郷キャンパス内にて開催されました。東京大学経済学部の山本浩司准教授、MDの小室敬幸氏の二名がコーディネーターとなり、若手の音楽家と歴史研究者が専門領域を超えて協働し、分野を超えた思考や感性の交流を深めました。

『楽譜という記譜方法の不完全性について考察すること』を主題とした今回のワークショップは、演奏家が楽譜に向き合うことと、歴史研究者が史料に向き合うことの共通点に着目され、約10年前に出版された2つの楽譜――完璧な状態の自筆譜が残されていないJ.S.バッハ《無伴奏チェロ組曲》の原典版と、楽譜のみでは把握しきれない19世紀の演奏習慣を復元しようと試みたブラームス《ヴァイオリン・ソナタ》の原典版を、ディスカッションの対象として取り上げました。これらの原典版を編纂したのは、音楽史料の扱いに長けた、史学寄りの音楽学者たちでした。彼らがどのようなアプローチで「不完全な楽譜」に向き合い、演奏と歴史の間をつなごうとしたのか。その過程を、歴史研究者と演奏家の両視点からたどり、実際に議論することが本ワークショップの核となりました。

前半は音楽家的視点、後半は歴史研究者視点で行ったグループワークの内容の一部を紹介いたします。


音楽家視点:『バッハ:無伴奏チェロ組曲』

【課題】バッハの《無伴奏チェロ組曲》は、作曲者自身の信頼できる楽譜が現存しないため、どの史料を採用するべきか長年議論されてきた作品です。1988/90年に出版されたベーレンライターの新バッハ全集、2000年に出版されたベーレンライター新版、そして2016年に出版された新バッハ全集改訂版(編者:Andrew Talle)の違い・比較を通して、Talleの提示する「Evaluation of the Sources(史料評価)」を演奏家と歴史学者双方の立場からどう捉えるべきか、またバッハが意図したであろうスラーの表記などの「正しいあり方」を追求することの意味について、議論をしました。

【発表】バッハの《無伴奏チェロ組曲》には自筆譜がなく、どの写譜が一番信頼できるかははっきりしていません。そのため、演奏家は楽譜だけでなく、自分の美意識や解釈によって演奏をつくっていく必要があります。

演奏家は「どう弾きたいか」といった実践的な判断を求められ、歴史研究者は「できるだけ正確な歴史を伝えたい」という立場で資料に向き合います。立場は違っても、限られた資料から全体を考える姿勢には共通点があります。また、楽譜の編者には「どのような歴史像を楽譜(演奏)に反映させるか」という考えがあり、演奏家はそれを読み取りながら、スラーや装飾を補って演奏を仕上げていきます。演奏家からは「演奏のたびに資料を見直し、解釈を更新している」との声もあり、その姿勢は歴史研究にも通じるものです。

別グループでは、『ブラームス ピアノとヴァイオリンのためのソナタ』について、ベーレンライター社から出版された2015年Urtext(原典版)に付されたPerforming Practice Commentaryおよび『ブラームスを演奏する』(邦訳2020年)の訳者あとがきを用い、楽譜に書かれていない演奏上のヒントや解釈のあり方について考察しました。

歴史研究者視点:歴史資料から「ドラマ」をひもとく

歴史研究では、一次史料をどう読むかだけでなく、それをどう物語として語るかという研究者の想像力も重要となります。歴史研究者と演奏家が協働し、一次史料や楽譜といったテクストをもとに、それぞれの専門的視点から対話を深めました。以下のような歴史研究の専門分野に関するプレゼンがグループごとに行われました。

・近代イギリス史(ピータールー事件)
・近代ドイツ医学史(セクシュアルマイノリティ)
・酒類産業史(アルコール・タバコ広告)
・近代ドイツ議会政治(議事録)
・19世紀イギリス宗教史(改宗・自叙伝)
・言語化された作曲家と作品のイメージ(日本人作家)

19世紀末のセクシュアルマイノリティの医師に関する研究からは、抑圧の中で表現を生み出すという視点がショスタコーヴィチの音楽と重なることへの気づきが共有されました。また、アルコール広告の研究からは、「背景を知って資料を読み解く重要性」について再認識され、さらに、「誰に向けて書かれたのか」「書き手の立場や時代背景によって意味は変わる」といった視点も挙がりました。

「楽譜」や「一次史料」といったテクストを単なる情報源として読むのではなく、「誰が、いつ、何のために書いたのか」といった背景や文脈を踏まえ、受け手にどう伝えるか、という解釈と再構築のプロセスが重要であることの共通性が共有されました。


両者がそれぞれの専門性を持ちながらも、自由で創造的な「ジャム・セッション」のような空間となり、対等な立場で分野を越えて対話することにより、多くの共通点や新たな視点が発見されました。
参加者からは、「視点や前提によって見え方が大きく変わる」「楽譜も史料も、解釈には好奇心と想像力が不可欠」といった声が聞かれ、演奏と歴史研究の営みに通じる思考の柔軟性が印象に残ったという感想が多く寄せられました。また、「オーディエンス(聴き手・読み手)を意識しながら解釈を積み重ねていく」というプロセスにおいても、両者の間に深い共感が生まれました。異なる分野だからこそ生まれた問いや気づきも多く、歴史の専門家が「楽譜との向き合い方から刺激を受けた」「対話の中で自分の無意識のバイアスや慣れた思考パターンに気づき、視野を広げるきっかけになった」という声も印象的でした。

参加者の多くが「時間が足りなかった」「もっと話したかった」「第2回を開催してほしい」と感じており、今回のような異分野交流の機会が、今後も継続的に行われることへの期待が寄せられています。再現芸術としての音楽を求める演奏家、再構成としての歴史叙述を試みる歴史研究家、といった両者がそれぞれの方法で楽譜や史料と向き合い、表現を模索する営みは、学術と芸術の垣根を越えて互いに学び合える豊かな可能性を示していることが明らかとなる有意義な時間となりました。

コーディネーター紹介

山本 浩司(東京大学 経済学部 准教授)
1981年生まれ。慶應義塾大学にて政治思想を学んだ後、2003年10月にロータリー財団国際奨学生として渡英。2010年にヨーク大学にて歴史学博士号を取得。その後ロンドン、エジンバラ、パリ、ケンブリッジなどで研究員を歴任し、2016年に東京大学経済学​研究科に着任、2018年より現職​。​2025年4月よりCenter for Global Advanced Studies ​初代所長。専門は初期近代イギリスの経済史・経営史。


小室 敬幸 (作曲、音楽ライター)
1986年、茨城県生まれ。東京音楽大学で作曲を学んだ後、同大学院では音楽学を専攻。修了後は大学の助手と非常勤講師を経て、現在は音楽ライター。クラシック音楽、現代音楽、ジャズ、映画音楽を中心に演奏会やCDの曲目解説、雑誌やWEBメディアにインタビュー記事を執筆。共著に『聴かずぎらいのための吹奏楽入門』『ピアノへの旅』。Music Dialogueエデュケーショナルプログラム・ディレクター


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