同時代に生きる作曲家たちの出会いと交錯―ディスカバリー・シリーズ 10周年記念コンサートに寄せて

2024.07.12

前回のコラムでは「クララ・シューマンが出会った二人の天才」というテーマで、クララ・シューマン(1819-1896)夫妻とJ.ブラームス(1833-1897)の関係性を紹介しました。
後編では、音楽のカラーが大きく異なる地で頭角を現したチェコ生まれのA.ドヴォルザーク(1841-1904)と、海を隔てたヴィクトリア朝時代のイギリスに生まれたE.エルガー(1857-1934)にスポットを当てます。この二人は幼い頃から音楽に親しみながらも、その才能が認められ作曲家としてのキャリアを本格的に始動するのは30歳を過ぎてからでした。そこでドヴォルザークがいかにしてブラームスに見出され、エルガーがどのようにブラームスやドヴォルザークの先例から多くを学び、個性豊かな音楽を生み出したか、改めて見てゆきましょう。
時代はロベルト・シューマン亡き後、ブラームスの青年期から続きます。

―青年期のブラームス
1862年、ブラームスは音楽活動の拠点をウィーンに移していました。しかし当時のウィーンでの生活についてクララ・シューマンに次のように嘆いています。
「ウィーンは人々も芸術への意識が高く造詣も深いが大変に騒がしく、静かに味わい、学びたいという環境には遠い。芸術家が批評家と聴衆に媚びる態度を見ると、仲間に加わる興味を失ってしまいます。」
内気で生真面目な性格がゆえに、ブラームスは夏の休暇には騒がしいウィーンを離れ、落ち着いた避暑地で過ごすようになりました。1864年から1874年の約10年間、クララも住んでいたドイツ南西部の地バーデン・バーデンで夏を過ごし、ここでブラームスが構想したのが「弦楽六重奏曲第2番」Op.36です。1865年、発表前にこの曲の総譜をブラームスから送られたクララは各楽章に対して感想を残し「偉大な作品であることは疑問の余地もなく、素晴らしい作品だと存じました」とブラームスに称賛を送りました。

19世紀中後半、未だ小君主国だったドイツ西部バーデン・バーデンの活況(F.ヴュルトレ版刻、K.リンデマン=フロンメル原画)

その後も数年ごとに夏に過ごす避暑地を変えていたブラームスがスイスのトゥーン湖畔にある保養地で「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ第3番」Op.108を書いたのは、50代半ばを迎えた1886年から88年にかけて。この頃にはすでに有名な4作の交響曲を書き終えており、晩期の作風への橋渡しとなる創作活動が続いていました。

―ドヴォルザークとブラームスの出会い
ブラームスが弦楽六重奏曲を発表したのと時期を同じくして、1865年、23歳のドヴォルザークは最初の交響曲を仕上げ、本格的に作曲家を志します。18歳から30歳までヴィオラ奏者として生計を立てていたドヴォルザークに道が開けたのは1874年。この年オーストリア文化教育省による芸術家支援の奨学金審査に合格したことで安心して作曲に専念できる見通しが立ち、結婚生活も安定してきた幸福感の中、翌年1875年に「弦楽セレナード」Op.22が作曲されます。

さらに1877年、この奨学金の審査員を務めていたブラームスの目に留まったことで、ドヴォルザークとブラームスの親交が始まりました。ブラームスはドヴォルザークを出版社ジムロックにドヴォルザークを紹介。ブラームスのハンガリー舞曲集の成功を前例に、ドヴォルザークにスラヴ舞曲集(第1集)の作曲を依頼します。翌年に出版されるとこれも大ヒットし、雌伏の時を経たドヴォルザークは、それまでのドイツ的な作風から、祖国チェコや東欧の舞曲のリズムを表現に取り入れたことが評判を呼び、一気に大作曲家への階段を駆け上ったのです。

スラヴ舞曲集第1集作品46初版の楽譜表紙

40代半ばのドヴォルザークは作曲家としての最盛期を迎えます。1886年にはスラヴ舞曲(第2集)、翌87年には「ピアノ五重奏曲第2番」Op.81を発表。1892年にはアメリカに渡り、交響曲第9番「新世界より」(初版の校正はブラームスによる)、弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」、チェロ協奏曲など、ヒットメーカーとして私たちにも馴染み深い作品を次々と発表し、帰国までの3年間で作曲家として新境地を開きました。
次々と功績を残したドヴォルザークは1897年、今度は自身がオーストリア政府から国家奨学金の審査員に推挙され、翌年にはブラームスに次いで芸術科学名誉勲章を授与されるなど、晩年期にかけて数々の栄誉ある賞を受賞します。ドヴォルザークにとって恩人であり友人であったブラームス。この頃の二人は国際的な作曲家として双璧をなす存在となっていました。

―イギリスの音楽文化
ヨーロッパ大陸から海を隔てたイギリスでは、独自の音楽文化が発達していました。19世紀のイギリスではクラシック音楽とは主にドイツ音楽のことで、その解釈者としてドイツの指揮者や演奏家が頻繁に招かれていました。ベートーヴェンの高弟リースやハレ管弦楽団の創設者カール・ハレなどはその筆頭と言えるでしょう。またヨーロッパ大陸の音楽家たちにとっても「イギリスの市民に受け入れられるかどうかが音楽家としての成功を左右する」と言われたほどに演奏会や音楽批評が盛んでした。クララ・シューマンやドヴォルザークもそうした豊かな音楽文化の地イギリスを度々訪れ、演奏会を成功させたことで、国際的な音楽家として脚光を浴びるようになったのです。

1871年3月29日、ヴィクトリア女王によるロンドンのロイヤル・アルバート・ホールのグランドオープン。当時のイラスト入り新聞『ザ・グラフィック』に掲載されている。

―エルガーとドイツ音楽
1857年に生まれたエルガーも、ドヴォルザークと同様に大器晩成型の作曲家でした。地元でヴァイオリン奏者、アマチュア奏者の指揮者として生計を立てながらほとんど独学で作編曲を学び、有名な大作の多くは40歳前後になってようやく発表されます。30代以前の作品で今も世界中で親しまれているのは「愛の挨拶」や「弦楽セレナード」Op.20くらいかもしれません。
1870年代後半、20代半ばのエルガーは、ロンドンを訪れたクララ・シューマンの演奏会にも足を運び、そこで披露されたロベルト・シューマンの作品に刺激を受けます。和声をシューマンとブラームスから学びとり、ワーグナーの影響も受け、10代の頃にはドイツ留学を目指していたことからも、ドイツ音楽がエルガーにとって教科書であり、原点であったことがわかります。交響曲第1番を発表したのが人生の成熟期(50代)を迎えてから、ということも含め、作曲家としてブラームスから多くの学びを得た様子は随所に見てとれます。

19世紀ロンドン名物の催し、水晶宮での土曜コンサートのプログラム。1881年4月2日に開催されたこの演奏会ではシュポア、メンデルスゾーン、シューマンといった過去のドイツの作曲家に加え、フランスのグノーやイタリアのヴェルディ、ドイツのヨアヒムなど同時代の大陸の作曲家の作品が目立つ。目玉演目の交響曲は英国人作曲家コーウェンの作。

―エルガーとドヴォルザークの出会い
ドヴォルザークとエルガーが出会ったのは1884年、エルガーの地元ウースターで開かれた音楽祭でのことでした。既に高い名声を確立しつつあったドヴォルザークはこの年に初めて渡英。自身の指揮によって、4月には交響曲第6番と『スターバト・マーテル』を披露しロンドンの聴衆から大きな喝采を浴び、すぐ2回目の演奏旅行が計画されて秋のウースター音楽祭出演が実現します。オーケストラのヴァイオリン奏者としてその音楽祭に参加していたエルガーは、そこで指揮者としてのドヴォルザークと共演したのです。大歓迎を受けるドヴォルザークに感化されたエルガーは、特に宗教曲において作曲技法や音楽性をこの大先輩の作品から学びました。

世紀をまたぐ頃には、エルガーは多彩な編成で規模の大きな作品を発表するようになります。今も有名な『エニグマ変奏曲』が作曲されたのは19世紀末、20世紀に入るとイギリス第二の国歌ともいわれる『威風堂々』などが作曲され、やがてハンス・リヒターやR.シュトラウスなどドイツの大物たちからもその音楽性について「ドイツ人と比肩する作曲家」と高く評価されるようになります。1904年にはイギリス王室からナイトの称号を授与され、エルガーは名実ともに世紀転換期のイギリスを代表する作曲家の一人となりました。

ナイトに叙されたサー・エドワード・エルガー

このように、7月15日のMusic Dialogue10周年記念コンサートでとりあげられる4人の作曲家は、それぞれキャリアを語るうえで欠かすことのできない局面で互いに出会っており、音楽的なつながりもあったのです。彼らが出会っていなければ、今回のようなプログラムは実現しなかったかもしれません。そうした運命の出会いにも少し思いを馳せながら、演奏会を楽しんでいただきたく思います。


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