設立10周年を迎えたMusic Dialogue が7月に開催するディスカバリー・シリーズは「10周年記念コンサート」と題した特別なプログラムをお届けします。この日に演奏されるのは、クララ・シューマン(1819-1896)、J.ブラームス(1833-1897)、A.ドヴォルザーク(1841-1904)、E.エルガー(1857-1934)という、同時代に生きた4人の作曲家たちの作品です。ここでは前編・後編の2回に分け、今回演奏される6曲の作品を軸に、その作品が作られた時代背景と、彼らの人生を左右した出会いや音楽への影響についてスポットを当て、その流れを追っていきたいと思います。
―クララ・シューマンの功績
ピアニスト・作曲家・指導者として活躍したクララ・シューマン=ヴィーク。女性のピアノ演奏が良家子女の嗜み・教養の一つとみなされやすかった19世紀の市民社会におけるパイオニアの一人として、8人の子どもを産み育てながら晩年まで音楽家として第一線の生き方を貫いた彼女は、夫ロベルト・シューマン(1810-1856)やブラームスにとっても影響力の強いキーパーソンでした。
クララは5歳頃から、娘をヴィルトゥオーゾに育てようとする父親によって、厳格かつ計画的な英才教育を受けます。クララに音楽家としてのキャリアを築かせるため、娘の興行師として心血を注ぐ父の思惑通り、クララは瞬く間にその才能を開花させていきます。8歳でモーツァルトの協奏曲を演奏するほどの腕前をみせた彼女は、9歳でライプツィヒのゲヴァントハウスでの演奏会でピアニストとしてデビューを果たした1828年、18歳のロベルト・シューマンと出会いました。ベートーヴェンに続いてシューベルトが亡くなる頃のことです。
天才少女としてヨーロッパ各地へ演奏旅行をしていたクララは、10代の頃には既にゲーテ、パガニーニ、リスト、メンデルスゾーン、ショパンといった芸術家から高い評価を受け、1838年には18歳にしてウィーンでオーストリア皇帝から「王室皇室内楽奏者」に任命されます。
ヨーロッパの広い地域にわたり為政者として君臨した皇帝から認められたことは、芸術家界隈を超えて社会的にも将来が約束されたようなものでした。こうして演奏家としてのキャリアを積む中で育まれていたロベルトとの恋に先述の父親が猛反対し、裁判を経て1840年(クララ21歳、ロベルト30歳)の結婚実現に至るまでに長い歳月を要したことは有名です。
この時点では社会的にクララの方が名実ともに広く知れ渡っていましたが、結婚後のクララは子育てをしながら生計のための自身の演奏活動を続けつつ、ロベルトの創作活動や演奏活動ばかりか精神状態にも配慮、さらには彼の作品の楽譜編集者としての仕事まで成し遂げていきます。
しかしロベルトはクララを認める一方で、「女性は一歩下がって控えめに」「君が外で演奏することをきっぱりと辞めてくれれば」という考えの持ち主であったため、結婚当初クララは妻としてのクララ・シューマンであることを優先しようとしました。しかし彼女には「自分の音楽を打ち棄ててしまえば、永遠に後悔し続けることになるだろう」と、当時の男性社会で戦う中培われた芸術家としての自信やプライド、負けん気の強さがあったのでしょう。そこで彼女は自分で作曲する時間こそ諦めたものの、演奏活動はむしろ精力的に継続、その中で夫の作品を世に広めることに力を入れます。たとえば今も有名なロベルトのピアノ協奏曲はクララの独奏によって初めて公の場での演奏が実現しました。クララは様々な地でこの曲の演奏を重ね、やがて後世にまで影響を与えるロマン派を代表する名作へと育て上げました。
こうしてクララは苦労しながらも結婚生活とキャリアの継続を叶えましたが、豊かな才能に恵まれながら当時の社会がそれを認めることを拒んだせいで自己実現に至れなかった女性は、実は他にも多くいたのかもしれません。
―シューマン夫妻とブラームスの出会い
クララの作品には「ロマンス(ロマンツェ)」と名付けられた作品が複数ありますが、クララがロベルトに捧げた最初のロマンスを作曲した1833年にブラームスは誕生しています。ハンブルクに生まれ、やがて本格的にピアノと作曲法を学び、作曲家を志すようになりますが、転機が訪れるのは1853年、20歳になる頃のことでした。
この年、ブラームスは同世代のヴァイオリンの名手ヨーゼフ・ヨアヒム(1831-1907)と出会い、フランツ・リスト(1811-1886)やシューマン夫妻といった上世代の重要人物たちの知遇も得ます。リストとは打ち解けることができませんでしたが、ヨアヒムとの絆は生涯を通じてのものとなり、そのヨアヒムを介してシューマン夫妻と出会ったことで、ブラームスの音楽家としての道が開かれるのです。
ブラームスがシューマン夫妻の元を訪れる数か月前、クララによって作曲されたのが、今回演奏される「ピアノとヴァイオリンのための3つのロマンス」Op.22でした。ヨアヒムの演奏するベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲に感銘を受けたクララは、この作品をヨアヒムに捧げ、二人はその後も共演を重ねました。
1853年9月、ブラームスはヨアヒムの紹介によってシューマン夫妻との対面が叶います。ブラームスは自作のピアノソナタ第1番を披露。純真な20歳の青年の演奏に心を打たれ、輝かしい才能を絶賛した二人はブラームスを歓迎し、友情の手を差し伸べたのです。こうして、シューマン夫妻は自身の影響力をもって、ブラームスの大作曲家としての成功の立役者となりました。
同年、ブラームスはロベルト、彼の弟子ディートリヒ、そしてヨアヒムとF.A.Eソナタを共作(ソナタ楽章はディートリヒ、緩徐楽章と終楽章はロベルトが書き、ブラームスはスケルツォを作曲)。初演にはクララも加わり、揃ってこれからの音楽界を牽引していくかにみえましたが、その3年後にロベルトは亡くなります。
シューマン夫妻を敬愛していたブラームスは生涯独身を貫き、以後クララとその子供たちを献身的に支え続けました。ロベルト亡き後のブラームスとクララの関係については様々な説がありますが、残された二人の友情の書簡などからも、互いの存在が精神的な支えとなり、ブラームスの音楽に大きな影響をもたらしたことは間違いありません。またロベルトの作品の数々は、彼の死後もその価値を高めたいというクララの尽力とブラームスの献身によって「ロベルト・シューマン作品全集」という校訂譜シリーズの出版に結実。1881年の刊行開始から1世紀以上を経た今なお、その音楽の多くが親しまれています。
クララとブラームスが校訂を手掛けた『ロベルト・シューマン作品全集』より、
ピアノ五重奏曲作品44のタイトルページ
(1882年出版)。
「クララ・シューマン監修」とあり、刊行時点でそれを明記することに出版社が意義を見出していたことがわかる
ここまで、クララ・シューマンという音楽家の功績について改めて振り返りながら、夫ロベルトやブラームスとの出会いとその関係性をご紹介しました。後編では、ブラームス、ドヴォルザーク、エルガーの3人がどうつながるのか、その関係性を紐解いていきます。
7月15日の演奏会ではロベルト・シューマンの作品は演奏されませんが、彼の存在はクララやブラームスを語るには外せません。次回9月のディスカバリー・シリーズ本公演では、彼のピアノ五重奏曲(クララのレパートリーでもありました)が演奏されますので、このコラムをその予習編としてもお読みいただければと思います。
原田 絢子/MD Writing Intern Project