コラム

【ディスカバリー・シリーズ3/3公演に寄せて】弦楽四重奏の都ウィーン ~18世紀と19世紀の場合~

2023.03.02

「音楽の都」として、そして大仰な言葉を使えば「弦楽四重奏の一大拠点」としても数多の人々を魅了し続けてきた都市ウィーン。ディスカバリー・シリーズ3月公演で取り上げられるモーツァルトとブラームスもその担い手で、今回演奏される2作品はどちらもウィーンで作曲されている。これらの音楽は、一体どのような場所で、どのような人々によって演奏されていたのだろうか。ウィーンと室内楽、特にその演奏者たちの変遷という観点から紐解いてゆきたい。

――18世紀末、モーツァルトの頃のウィーンでは

モーツァルトの弦楽五重奏曲第5番ニ長調K. 593が作曲されたのは1790年のことで、ウィーンを帝都とするハプスブルク家は当時オスマン帝国との戦争による財政難などから宮廷楽団の規模を縮小していた。だが、これまで宮廷が育んできた音楽への情熱は、社交の一環としての側面を持ちながらも、ハプスブルク家の臣下の貴族たちに確かに引き継がれていた。
モーツァルトに仕事を依頼する顧客たちもこうした貴族や上流階級が大半であった。そのため、演奏の中心的な担い手も、彼らが抱える職業音楽家による四重奏団、そしてアマチュア愛好家としての貴族当人たちであった。モーツァルトが五重奏曲第5番を捧げたとされる、音楽家で商人のヨハン・トストもその一人で、彼は弦楽四重奏曲ブームの立役者の一人でもあったヨーゼフ・ハイドンに多数の四重奏曲を依頼していた。
また、こうした作品は主に宮廷や私設のホールで限られた人々の間や公開演奏会で披露されていた。「公開演奏会」にしても、残された予約者リストを見ると聴衆の大部分は貴族や裕福な上流階級の市民たちに限定されていた。《魔笛》など当時ウィーンの音楽劇が獲得していた大衆性を考えると、聞き手の社会的階級の層は大分に異なっていたようだ。

弦楽四重奏に興じるハイドンやモーツァルトらを描いた後世の想像図

――19世紀、二重帝国時代のウィーン

1791年、モーツァルトが35歳の若さで亡くなってから、ブラームスの弦楽六重奏曲第2番が1865年に作曲されるまでの間に、社会の状況は大きく変わっていた。ナポレオン戦争にウィーン体制、1848年のウィーン十月革命を経て、この70年の間でウィーンは「神聖ローマ帝国」から「オーストリア帝国」へと変わり、そして1866年の普墺戦争を経て今度はまた「オーストリア=ハンガリー二重帝国」の首都になった。その間、貴族や市民たちはどんな音楽生活を送っていたのだろう。
19世紀に入ると市民社会の興隆も相まって、室内楽の鑑賞や演奏はこれまでの上流階級中心のものとしてだけでなく、サロンや家庭の場において、一般の市民たちの生活の中へも浸透していくようになる。一家で弦楽四重奏を演奏するアマチュアの音楽愛好家たちも、今や珍しくはなくなっていた。こうした普及の背景には、モーツァルトの時代から数十年を経て活発化してきた楽譜出版や楽器の発展はもちろんのこと、各種新聞での音楽批評と、卓越した演奏技術を披露するヴィルトゥオーゾ(名演奏家)による四重奏団の存在も大きいだろう。ブラームスと深い繋がりを持っていたヴァイオリニスト、ヨアヒムによる四重奏団や当時最高峰とも言われたヘルメスベルガー四重奏団、マーラーの義弟であるアルノルト・ロゼーのロゼー四重奏団、そして現代でも2008年に惜しまれつつ解散したアルバン・ベルク四重奏団など、ウィーンを拠点としてきた優れた四重奏団は枚挙にいとまがない。19世紀のウィーン市民たちは日常の中で弦楽四重奏と接する機会を持っていたのである。

今回演奏される2作品が、もしそこが演奏会場でなければ、どのような場所で演奏されていたのか思い浮かべてみてほしい。モーツァルトのものはどこか貴族の邸宅のような場所、ブラームスのものは市民家庭の客間(四重奏ならともかく、一家で6人の奏者を揃えるのは難しいことではあるが)といった光景が浮かばないだろうか。音楽そのものや作品の成立過程だけでなく、その音楽が演奏されていただろう情景に想いを巡らせてみると、交響曲がホールや楽器の進化の歴史でもあるように、室内楽からは社会の移り変わりも見えてくるのである。

山埼圭資/MD Writing Intern Project


facebook twitter LINE