コラム

【ディスカバリー・シリーズ3/3公演に寄せて】 室内楽曲はどのように書かれていたのか

2023.03.01

クラシック音楽の作品名といえば、「編成名+第○番」が定番。Music Dialogueの3月公演で取り上げる2曲も「弦楽五重奏曲第5番」と「弦楽六重奏曲第2番」で、これだけではどれも同じような創作過程を経て書かれた作品のように思えてしまうかもしれません。しかし実際は書かれた時代が違えば、音楽家の働き方も異なるため、作品が生まれる経緯も大きく違っていました。
 18世紀のモーツァルトと19世紀のブラームスではどう違うのか? これから一緒に探ってみましょう。

——顧客の都合をよく意識したモーツァルトの時代
 まずモーツァルトが活躍した18世紀について。この時代において固定給がもらえた最大の就職先は宮廷と教会でした。宮廷音楽家の中でも、ハンガリー最有力のエステルハージ家に勤めていたハイドンや、ウィーン宮廷で働いたグルックは楽長という役職につき、給与も良かったようです。しかし、作曲、指揮だけではなく、楽団員の管理(練習面だけではなく心のケアも!)や、なによりも仕えている王侯貴族を楽しませなければならない責任を負わされる立場で、中間管理職のような立場でした。一方、教会での給与職といえば多くはオルガニストでしたが、給料は宮廷音楽家より少なく、他の仕事と兼任しながら生活せざるを得ませんでした。
 とはいえ、宮廷でも楽団規模が大きいところは雇用人数も多く、当時は音楽礼拝をする教会の数もヨーロッパ中に多かったため、このような場所へ就職し働くことが安泰な生活への道でした。言い方を変えると、大半の音楽家は宮廷や教会に雇われて、雇用主の依頼や要望に応えながら生きてゆくしか生活する術がなかったのです。

18世紀の貴族たち向け音楽会の様子

一方、この頃には数こそ少ないながらも、特定の宮廷や教会勤めをしないフリーの音楽家が現れます。18世紀前半にはボワモルティエがパリで活躍、世紀後半のウィーンではチェコ生まれの作曲家ヴァンハルが人気を博し、ハイドンやモーツァルトにも影響を与えていました。モーツァルトも、1781年にザルツブルクの宮廷音楽家を解雇されてしまった後はオペラなどの作曲に加え、自身で演奏会を開いたり、ピアノを教えたりと多様な活動をしながら生計を立てていました。

入手した楽譜を試してみるアマチュア音楽家たち

こうしてマルチな才能を発揮したモーツァルトですが、弦楽五重奏曲第5番を創作した1790年の時点ではウィーンの宮廷作曲家として働いています。この頃の彼といえば、人気が落ちお金もなく、みるみるうちに体も衰弱したと語られることが多いですが、宮廷が彼に与えた年棒は当時としてはかなり高額でした。しかしパートナーのコンスタンツェの病気による温泉療養費や、北ドイツ旅行に同行してくれたリヒノフスキー侯爵(ベートーヴェンのパトロンとしても有名)への借金問題などのため、収入よりも支出が上回っていたようです。

弦楽五重奏曲第5番は、ハンガリーの裕福な音楽愛好家の依頼で作曲されました(この依頼者は、ハイドンの元同僚で後年裕福になったヴァイオリン奏者のヨハン・トストと推察されています)。なんとか収入を増やしていくためには、このような外部からの依頼を逃すことはできません。弦楽五重奏という編成も、作曲家自らの独創性を試すためというより、依頼者を満足させるためその要望に基づいて決定したものだったと考えた方がよさそうです。

——19世紀における音楽家の解放と新たな苦労
 18世紀まで優位だった顧客ありきの働き方は、19世紀に入ると市民階級の台頭により縮小していきました。音楽も王侯貴族を楽しませるものから、大衆へ向けたものになり、音楽家たちもより自由に活動ができるようになったように見えます。
 しかし、それは従来なら宮廷で比較的安定した給与をもらえていたはずの音楽家たちが、勤め先を失い、いわば自営業者として稼がざるを得なくなったということでもあります。それゆえ19世紀の音楽家たちは、演奏・作曲・指揮・編曲など多方面に稼ぎ口を探し、さまざまな工夫をしながら生きるために働いていました。作曲家として音楽史に名を刻んだブラームスでさえ、若い頃から演奏や指揮の仕事もし、ピアノのレッスンもしていました。

ピアノを弾くブラームス

ブラームスの弦楽六重奏曲第2番には依頼者はおらず、編成も彼自ら決めたようです。ブラームスと言えば、ベートーヴェンの存在に圧倒され交響曲第1番の着想から発表までに20年以上の時間がかかったという逸話が有名ですが、弦楽四重奏曲についても長らく満足できるものが仕上がらず、若い時に完成させたのは六重奏曲や五重奏曲などでした。依頼者のためではなく自分の芸術を追求し、編成を決定するのは19世紀以降ならではといえるでしょう。

弦楽六重奏曲第2番の初版譜タイトルページ。当時は購買者向けの差別化として凝った飾り文字を使うことが多かった

また、作品が完成したら次は売り込みに出かけなければなりません。ブラームスは自ら3つの楽譜出版社を回り、一度は契約が破談したものの、再度交渉してジムロック社から作品を出版してもらいました。依頼者に満足してもらうための制約は18世紀に比べればかなり減ったと言えそうですが、出版社は多くの人が買ってくれると見込んだ作品しか契約を結んでくれず、19世紀には前時代とはまた別の苦労もあったことが推察されます。

ブラームスの弦楽六重奏曲第2番が出版された1866年、パリで披露されたオッフェンバックの喜歌劇『パリの生活』ポスター。貴族の口コミではなくマスの都市生活者が音楽の担い手になってゆく時代、こうした広告も重要になってくる

「弦楽五重奏曲」や「弦楽六重奏曲」と一口に言っても、このように作曲家たちが誰のために作品を作っていたのか、また出来上がった作品をどのような人が鑑賞していたのかといった実情は時代ごとに異なっていました。
 作曲家の社会的な立場や働き方が対照的な二つの時代から生まれた、ディスカバリー・シリーズ3月公演の2曲。モーツァルトとブラームスの新たな面白さが発見できる絶好の機会にもなりそうですね。
(山下実紗/MD Writing Intern Project)


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